2024年、今年もいろいろありました。
自分自身、この言葉で今年1年を振り返るようになって結構経つのですが、それが故にこの言葉に甘えてしまっていた部分があったのかな?
と思うことがあまりにも多かった今年だったのかもしれない。
自分のコントロールできないところでもいろいろあったのは事実であるが、その一方で前述の通り省みることが多かったのもまた事実。
それにしても、毎年毎年もうこれ以上のことは起きないだろうと思ってはいるけど・・・それでもいろいろと起きるのは確かなんだよね・・・
そしてそれは往々にして言えないことばかり・・・今年のは特に体力・気力・精神力を非常に擦り減らす事ばかりでした。
今年の自分、良し悪しで言うならば迷わず後者、と言うくらいに何もできなかった、というのが率直な感想。
ありがたいことにいろいろな経験をさせてもらったし、またこちらから飛び込んだこともいくつかあるのは事実ではあるけど・・・
・・・まぁ、甘受しておきますか。笑(誰目線?)。
卑屈すぎるのもアレなのですが、今年実は本当にやりたかったことはこれだったんじゃないか、と気付かされる出来事がつい先日あって。
それができていないというのと、そもそもそれに気付くのがあまりにも遅かった、気付く状態に自分がなれなかった、というのが今年の自分だったのかな、
と思う次第。
年齢・立場等の話をするのは野暮ったいのですが、自分自身がこの世の中を走り抜けるのと同じくらいにその道を整備する、
走ることのできる状態を作る役回りがやってきた。残せたらいいな、道を作れればいいな、から残さなければならない、道を作らなければならない、
になりつつあって。
この「残す」というのがさっき書いた、本当にやりたかった(と気がついた)こと。
自分自身は少し特殊な役回りな技術人間で、自分が知りたいことというのはYahoo!でググってもその断片しか出てこなくて。それを組み合わせて組み立てて、
文字や図に残してナンボな訳で(しかもあってもほぼほぼ英語で、その日本語訳を読む際はある意味で脳みそと腹筋を鍛える事になる事もしばしば)。
ゆえに何らかの形で残す、という事については頭の片隅にはあったもののそれができなかったのが・・・という訳だ。
まぁそれに気がついた、反省はしている、来年の〇〇〇さんにご期待ください、とは思えているのでこの内容を反芻して・・・
と楽観的に思う自分がいる一方で、「遺るもの、遺したもの」について考えさせられた出来事があって。
「残」の方は自分自身が意識の範囲が及ぶものだけど、「遺」の方は自分のコントロールできる範囲が非常に限られるわけで。
「遺す」事になるきっかけもまた然りで(これは自分自身でコントロールしてはならない)。そしてこれには多大なる喪失感が併せて付いてくる。
「残」の方はその人が何らか飾ったもので、一方で「遺」の方はそのものの素の状態。
まぁ、どちらもその人の個が出ているのは間違いようがない、のかな。
何が言いたいかというと、人間の評価って、この「残した」もの、「遺した」ものの価値によるんじゃないかな、と。
その「もの」は有形無形様々で、その価値は評価される人や時期によって変わるものであって。
評価、と聞くと無意識のうちに背筋が張ったりするけど、まぁされなければならないなら良いようにされたいよね。というのは全人類の願いか(ぉ
自分は誰かに評価されるために生きている訳ではないけれど、評価されなければならないという人間としての業を背負っているのもまた事実。
いろいろ考え出すとキリがないのと、考えすぎで動けなくなってその結果・・・というのも勿体無いので、程よく走りながら、そして程よく考える
というのが良いのかもしれない。できれば考えるのは表ではないところで。その方が格好良くない?
という柄にでもないことを2024年の末に書き残してみた。
(2024年12月31日、23時10分)