「今年もいろいろありました。」「…色々って、何?」
…冷静に突っ込まれることもあるけど。ことしもこういう1年だったということは確か。
こう思わなくなったら、おそらく自分はおしまいなんじゃないかな、とも思ってみたり。
※ なおこのツッコミは、実話です(ぉ)。
目を瞑ると、禍の渦の音がまだしっかりはっきりとはしていて。
否、別の渦が巻いていて、その音なのかもしれない。
それでも前に進もうとして、進めなくて、足止めする人がいて、足掻いて、
まだ足掻ききれなくて、それでも今年は終わるわけで。
前に進みたい人と、進む人と、進めない人と、進まない人と。
この差、今後加速度的に広がり、取り戻すことのできないことになるんじゃないのか、と思っているのは自分だけでしょうか。
今年の自分、去年ラフを描いた姿に色を塗っていくことができたのか?
去年の自分からの問にまだ答えは出せそうにはない。
ただ、その答えを出すために必要なものはわかった気がして。
言えるのは、結局は自分自身だったということ。
よく、運は自分自身の手で掴む(掴め)的な言葉があるけど、
これって掴むための土台固めをちゃんとして、その上でつかもうとする人に
運は巡ってくるんじゃないのかな、と思っていて。
土台がちゃんとしていないとその上に乗っかっても崩れてしまうし、
また土台がちゃんとしていてもつかもうとしなかったら素通りするだけであって。
この言葉も、どこかの受け売りな感が否めないけど、それはそれだ。自分がそう思っているわけなんだし。
今年、最後の最後にこの言葉にハッとさせられる事があって。
自分自身は(後ろ向きな意味で)変わっていないんだな…と蔑んだのも事実。
詳細は流石に割愛ではあるけど、言えることは土台をちゃんと固められてないんだな、
という現実を自分自身から自分自身に突きつけられたのかもしれない。
まぁ、このタイミングでそれに気がついたのはラッキーだったのかな。
多分それがなかったら多少の浮かれ気分でこの後取り返しのつかないことに…
となっていた可能性もあったわけで。
ただ前と違うのは、その課題というか、壁を前向きに捉えられそうな感じがあって。
その壁の先には自分が進みたい道の続きが見えていて。
前はそれが分からなくって、でも周りの人にはそれが見えていて、
いやいや引っ張られて前に言ってた節もあった。
けど、その先の道も見えるようになって、引っ張る手の正体も解ってきて。
結局は、先人が述べたことに間違いはないわけで。
正確には、述べた内容の全てではなくその裏にある意図というべきか。
内容そのものは当然ながら時代背景等々で変わるため、そのまんま受け取ることは
できないけど(受け取るべきではない、といったほうがいいのかな)、
その言葉の芯にあるものは同じなわけで。
ではその芯をどのようにして読み解くか。
それは結局は経験なのかな…って思っていて。
この部分の読み解き方は人それぞれだと思うので人によって答えはバラバラ。
見つけたもん勝ちな部分があると思うけど、自分自身は典型的な経験論者。
それが故に、こういうふうに導くのかな。。と思っています。
そういう意味では、この出来事は今年の最大の収穫だったのかもしれない。
転んでもただでは起きない。転んでも泣かない。そんな感じ。
今年の漢字、「戦」という漢字だったようで。
自分も数年、これについて気にした年があったけど、今は全く気にもならない。
もしかしたら、言われなければ知らないまま、ということもあったのかもしれない。
これはあくまでも周りがそう思うだけであって、自分の中で必要では
なくなったから、なのかなと思っていて。
張り合うわけではないけど、自分自身にとっての来年の漢字は浮かんでいて。
それは「歩」という字。
将棋の中で最弱で、前に一歩しか進めない。直進二歩以上進めたり、後ろにも進めたり、
トリッキーな動きもできないけど、前に進めば「と」金になって、いろいろなことができる。
でも、結局は歩なわけであって、将棋の駒の中で一番弱く、
前に一歩しか進めない事実は変わらないわけであって。
なんか、自分自身に照らし合わせるにふさわしいなと感じた。
去年の末に、「歩」が成って「と」になって、そしてその「と」が取られて「歩」に戻って。
で、新たな「歩」を成らすべく考えるわけであって
(将棋は「歩」を成らせれば良いというものではないことは重々承知)。
まだまだ、考えながら歩を進めていくことは変わらないのかな、というのは間違いないのかも。
ただ、この道が正しい方向に進んでいる、という確信があるのでそれは気持ち的には楽かな、
とは思っていて。最も、気をつけないと気がついたら眼の前は崖、
ということも多分にあるので、それは気をつけないと。
そして、自分自身に足をすくわれる事のないようにしないと。
かなり遠回りして、でもようやく見つけた自分の「居場所」。簡単に離してなるものか。
来年は、自分自身との戦いの年になるのかもしれない。
…最後のこの一文を書いたとき、自分の中のスイッチが入ったような気がした。
この感覚、忘れるんじゃねぇぞ、と。
(2022年12月31日、23時25分)